去年の日記帳

1年前の日記を投稿しています ◆ 時々雑記

◆ プールの記憶

夏の夕方、私は6歳で、祖母が運転する車の後部座席に横になって寝ていた。目が覚めた時に少し汗をかいていたけれど、張りついた髪を払い寝返りをうてば、車のなかはそんなに暑くはなかった。祖母の新しい車はエアコンが効いているのかもしれないし、プールの後にシャワーも浴びてさっぱりしたばかりだからかもしれない。心地よく疲れた体をあお向けにして、私はさっきまでいた屋内プールの光景と、反響する音と、水や空気の温度を思い出していた。

そのホテルのプールは学校のプールのように体が縮みあがるような冷たさではなく、夏の熱を持った体にこころよい程度にひんやりとした温度だった。冷たすぎず温かすぎず、たくさん遊んでも暑くなることもなかった。水はきれいで、虫や葉っぱやその他正体不明のものが浮いていることもなく、笛や大きな声で急かされることもなく、ザラザラした固いプールサイドに体育座りをしなくてもよかった。つまりプールから憂鬱な要素が一切取り除かれた、天国のようなところだった。

泳ぐのは得意ではなかったが、水と遊ぶことは好きだった。水は体を包み込み、波打ち、弾けて、プールに落ちる水滴は水面に泡や波紋を作っては、また体を包む水と一体になった。そういうひとつひとつを好きなだけ、だた見ていても構わなかった。私はただ見ていることも好きだった。中庭の窓からの陽射しを受けて水面がきらきら光るのを、プールの底に引かれたラインの赤や青を、頭上に渡された連なる旗の色が水面に映るのを、それら全てがゆらゆら揺れるのを、ただずっと、飽きるまで眺めていてもいいのだ……そう思いながらも、何だかいてもたってもいられない気持ちになり、泳いだり潜ったりといった学校やスイミングスクールで強いられてやっているようなことまで、自ずとやり始めたくもなるのだった。泳ぎの得意な祖母は深い場所で気持ちよさそうに泳いでいる。後でビート板を取ってこよう。ビート板はたくさん用意されていて、どれもきれいだった。誰とも取り合わずに好きな時に取りに行けば良かった。プールサイドには妹を抱っこした母がいた。私はまるで内側からくすぐられたかのように何故だか笑いが込みあげてきて、くくくと声を出して笑う。プールサイドの母が笑い、抱っこされた妹もつられて笑う。祖母も笑っていた。笑い声が遠いような近いような場所で響く。記憶のなかみたいに。夢のなかみたいに……

車に揺られながら、ふとこの光景は今見ていた夢だったような気がしてきた。あのホテルのプールには去年の夏に行ったけれど、今年は行かれないと言われてがっかりしたのではなかったか。いや、それにしては水の感覚も温度も、あまりにも生々しかった。私があまりにがっかりしたので、やっぱり連れて行ってもらえることになったのだっけ……私は寝ぼけた頭を起こしよく考えようとして、そして、不意にあることを思いついた。このまま夢だったのか本当だったのか、分からなくしてしまおう。それはただの好奇心からの思いつきだった。あのプールは本物の記憶か、それとも私の頭のなかで作りあげた夢か。分からないままにするなんてこと、できるだろうか。私は注意深く意識のピントをずらし、揺れる車にぼんやりと身を任せ、さっきまでプールにいたような、そうではなく、あまりに行きたかったプールをただ夢に見てしまったような、どちらともつかない気持ちを保とうとした。そして、それは成功した。あれから30年ほどの月日が経ち、今ではあの時にホテルのプールに行ったのが本当だったのか、夢だったのか、もう全く分からないままになっている。ただ、あお向けになって車に揺られながら幸せな心地で、プールの光景をぼんやりと思い浮かべ、これを夢とも現実ともつかない特殊な記憶のポケットにしまっておこうと、強く決心したことだけを覚えている。

 

2023年7月16日 晴れ