去年の日記帳

1年前の日記を投稿しています ◆ 時々雑記

◆ 名前を知ること(夾竹桃について)

去年のこの時期は、日記はつけたりつけていなかったり(つけていてもメモ程度のものだったり)するので、今日も去年の日記はありません。以前に目標を立てたとおり、日記ではなく書きたいことを自由に書いてみようと思います。

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例えば木を見て花を見て、鳥を見て橋を見て川を見て、私はすぐにその名前を知りたくなってしまう。ただ、そう思うようになったのは大人になってからなので、私にはまだまだ身近な植物なのに名前を知らないということが、よくある。去年の日記のどこかにも書いたが、名前を知ると見えてくるようになるから本当に不思議。

夾竹桃は、3、4年前にその名前を知った。駅名を覚えていないのだが、たしか小田急線のどこかの駅だった。普段は通らない駅だったはずで、結婚する前の夫の家からの帰りに、乗る電車を間違えたか乗り過ごしたかで戻っている途中だったかもしれない。夜だった。電車の座席から、開いたドアの向こう、駅のホーム越しに鮮やかなピンクと、白の花が見えた。花は大きく、鮮やかで、暗がりのなかでわずかな光をあつめて発光しているかのような、妖しいくらいの迫力をもって目に映った。私はすいた電車に座ってうとうとしていたところで、ぼうっとそれを見て、魅了されたようになった。ドアから入る夜風が気持ちよかった。頭が冴え始めたころにはドアが閉まり電車は発車していた。

もうかなり遅い時間で、もう一度戻るわけにもいかず、でももう今後なかなか行かないであろう駅なのだ。その駅が遠のいていくなか、どうしてもその花の名前が知りたくなった。欲しくなった、と言っていいくらいに。

携帯から「夏」「大きい」「ピンクの花」などの言葉で検索すると、立葵日々草などと並んで、「夾竹桃」の名前と写真を見つけた。一瞬のことだったが記憶に残った花や葉の形から、これだと検討をつけた。家に帰ってさらに調べると夾竹桃には毒性があり、食べたり、切り口に触ったりしてはいけないだけではなく、生木を燃やした煙まで有毒であるという。妖しげな魅力はそのためだったのだろうか。そして夾竹桃は非常に強い植物で、広島市で原爆投下の後いち早く咲いた花が夾竹桃だったため、復興のシンボルとされた、とあって、さらに、「神奈川県川崎市では、長年の公害で他の樹木が衰えたり枯死したりする中で、キョウチクトウだけはよく耐えて生育したため、現在に至るまで、同市の緑化樹として広く植栽されている」*1とあり、きっとあれは夾竹桃だったに違いないと思った。小田急線のあの辺りは川崎市だったはずだから。

「分かる」ことは「分ける」こと、と言うのは本当にそうだ。その夏から私はたくさんの夾竹桃を見ることになった。今までは「植物」とか「ピンクの花」とぼんやり認識する程度であったに違いなく、目に入ってこなかった。それなのにこの夏は少し歩けば「あ、夾竹桃」とすぐに夾竹桃を見つけるのだった。いつもの駅からの帰り道にも、夾竹桃はあった。立派なお庭をもつ皮膚科の角である。ここのお庭は春先には梅が咲き、秋には金木犀が、冬には椿が、と垣根の外から眺めて楽しんでいたにも関わらず……夏の夾竹桃だけは、名前を知らないばっかりに素通りしていたとは。なんと、家のベランダの下にも、夾竹桃は咲いていた。今では洗濯物を干しながら咲き具合を見るのが夏の楽しみになっている。

名前を知らなかったとしても、ベランダの下の夾竹桃が、W医院さんのお庭の角の夾竹桃が、あの駅で見た夾竹桃ほどの魅力をもって目に入れば、きっと認識しただろう。その時から、名前を知ろうとしただろう。駅のホームの向こうにパノラマのように一面に、満開に咲いていたこと、夾竹桃としては少し珍しい白い花と交互に並んでいたこと、眠くて、夢と現実のあいだのような場所から見たこと……などが重なり、一層きれいに見えたのだと思う。そのおかげで、夾竹桃という名前は私に特別なインパクトをもって刻まれてしまった。

あれほどきれいだと思う夾竹桃にはその後出会っていないのだが、夾竹桃は好きな花の一つになった。よく見るようになって気づいた夾竹桃の好きなところは、6月頃から咲き始めて9月、10月になるまでずっと咲いていてくれること。夏の終わりに雨が続いたりして萎れかけても、また復活することもあり、強い、と感心する。そのしたたかさに、敬意を払いたくなる花でもある。今年もベランダの下の夾竹桃が咲き始めている。

 

2023年6月6日火曜日 くもりのち小雨